西洋占星術とは

歴史に照らし合わせた、西洋占星術を伝えています


 「西洋占星術とは何か」

これを捉えるために、西洋占星術そのものをストレートに考察したとしても、なかなか本質めいたものは見つけにくいでしょう。


そこで、西洋占星術の歴史といったことを通して考えてみることで、ひょっとしたら西洋占星術が浮き彫りにされるのではないかと期待をしてみるわけです。歴史というと、どのようなものの歴史でも、必ず変遷のなかに晒されてきていると考えるのが至極当然のことです。また、西洋占星術そのものを掴みたいという主眼であったとしても、歴史的な推移というものを知らなければ、とても前に進んでいけないとも思うわけです。

 

歴史を知ろうとしたときに、歴史が常に発展し続けるという考え方は、歴史そのものの本質を知っている考え方では、ないと思います。物事は移り変わり発展していくと思われがちなのですが、とかく人間の行う事柄というのは、絶えず変動し続け、発展したり、衰退したり、付け加えられたり、削ぎ落されたりする、これが歴史的変遷というものです。一定不変のものではありません。ですから、西洋占星術は歴史を通して発展し続けて来て、今日の形態になってる、というのはいささか誤謬を含んでいると言わざるをえません。

 

 

その変遷の中にあって、変わらないもの、変えてはいけないもの、これが必ずあるはずです。それを求めて掴むことができれば、西洋占星術を捉えたということになるはずです。しかし、至難です。

 

 

西洋占星術が今日の形(これも多々あるので、どれが今日の形というものを指すのかが難しいのです)が、直ぐにこうなったということではありません。長い歴史があります。それでも、ホロスコープを使う占星術であること、そこにはサインとハウスがあること、少なくとも、幾つかの惑星を使うこと等でしょう。ホロスコープを使うということは、歴史上それほど昔に始まったことではありません。約2100年ほど前です。

 

西洋占星術の歴史はとても古く長く、5000年~6000年も前からの研究があったとされるのも事実なのですが、ホロスコープは使われていませんでした。また、アセンダントもあまり重要視されていませんでした。それがホロスコープを作るという行為を行った時から、大事になったのです。したがって、ここではホロスコピック占星術と呼ばれる、ホロスコープを作って判断をする占星術に歴史を絞ることにします。

 

歴史の変遷の中から、西洋占星術が浮かび上がってくれば幸いです。

 

 

歴史を見据えてみましょう。初期のホロスコープを作る占星術には、確かに56000年前から行われていた星々の観察が含まれていたことに気付きます。それが行われていた地域は、ヘレニスティックな文化圏でした。伝説の人物、ヘルメス・トリスメギストスが出てきます。が、それは、その名を語る人物であり、当人ではないのであります。それを引き継いだ人物は、これまた神の名を冠したアスクレイピオスでした。もちろん偽名です。その時代、書籍を著す人々は、そういったニックネームを付けることが流行っただけなのです。

 

書物は残されていません。後世に残された引用や、当時の歴史家の語る事柄から、そういった書籍類が存在したことが分かっているだけです。大火で焼失したアレクサンドリア図書館には、きっと残されていたと推測ですが思います。これは占星術に限らず多くの文化のための悲惨な出来事でした。

 

 

それを読んでいたであろう人々の文献類が、幾つか残されています。20冊にも満たない数しかありません。それら全てを私が読んだわけではないのですが、そこには今日行われていない技術が残されています。

 

  • チャートを、昼と夜に分けました。
  • その技術では、昼の惑星とされる星々の意味が、夜には変わってしまいます。
  • その技術では、夜の惑星とされる星々の意味は、昼には変わってしまいます。
  • それぞれの惑星が、歓喜するという状態を観察しました。
  • それぞれの惑星が、太陽との位置関係で、解釈を違えていました。
  • それぞれの惑星が、他の惑星との位置関係で、解釈が異なっていました。
  • それぞれの惑星が、月との位置関係で、解釈を違えていました。
  • それぞれの惑星の月との関係が、他の惑星との位置関係の影響を受けました。

まだまだ、あります。

 

上記のものは5~6000年前から続けられてきた星々の観察・観測に基くもので、何も奇を衒ったものではありません。まさしく伝統というものです。こういった星々の観察方法が、ホロスコープを使う占星術が作り上げられたときには取り行われていたのです。(紀元前 100年前後のことです。この時代の占星術をヘレニズム占星術と呼びます。)

 

それがペルシャ(4~6世紀)を通り、アラビア(8~9世紀)に至り、ヨーロッパに至ったときには、すっかり忘れ去られたかのように、「どこそこの(サインとか、ハウス)に置かれた惑星の意味は」に、変わっていきました。

 

 

その原因を探っていますが、なかなか分かりません。不明です。理由が何かあるはずです。推測すると、エフェメリスの普及が要因としてあったのではと思います。しかし、疑問が残ります。エフェメリスを見た方が、惑星の観察が外へ出なくてもできるはずです。でも、昼と夜のチャートに分けるということも、徐々に行われなくなっていきます。何故でしょう。伝統的なものが失われていったのです。「不要だから行われなくなった」とは言い難い事実があります。アラビアの占星術に目をやると、既に「セクト(昼と夜に分ける)」というプロセスが欠落しています。代わりに、多少昼夜は残されていますが、昼の惑星が昼の場所にあることが重要視されていきます。地平線の下にあっても、なお、重要であった木星や土星の意味が、このことで変化してしまいます。

 

夜の惑星しかり。夜に月が地平線の下にあったりすると、あまり良くないことになってしまいました。夜の星である金星が、夜に地平線の上にあるなんて滅多に起こらないはずです。そうでない金星は、良くないことにされていきます。初期の占星術には、そういう弊害は出ていません。

 

 

ペルシャやアラビアを通っていく間に、昼と夜の区分がまったく無くなったわけではありません。ロットの計算などで時々出てきます。でも、徐々に、昼と夜の区別が失われていきました。不思議です。これは、発展なのでしょうか? それとも衰退なのでしょうか?

 

また、アラビアの占星術にも残されていますが、誕生の前の朔望月(新月や満月)の観察も、うるさく言われなくなりました。伝統的には観察されていたのに。これは、発展なのでしょうか、衰退なのでしょうか?

 

初期のホロスコープを使う占星術では行われていた、惑星の詳細な把握が、アラビアの占星術からは伺い知ることができません。何かが欠落したのです。それこそ、56000年間続けられてきた星々の観測・観察による西洋占星術が失われつつあったのです。これは、発展なのでしょうか、衰退なのでしょうか?

 

西洋占星術の目的は、チャートを読み取ることに違いないと思います。少なくとも、目的の1つにはなっていると思います。それそのものが西洋占星術であるとは思いませんが、チャートを読み取る為の主眼が、惑星の観察に置かれていました。現代の占星術でも、惑星の観察として、エッセンシャル・ディグニティーやアクシデンタル・ディグニティーとして残されています。けれども、その中には欠落させられた伝統的なものが多々あります。これは発展なのでしょうか、衰退なのでしょうか?

 

また、歴史を紐解きながら思うことは、チャートを読み取る前に、惑星の観察・観測が行われていた事実があります。チャートに乗せられている惑星が地平線の下にあっても、地平線の上に出ていることがよくあります。また、チャートには地平線の上にあるのに、見えないこともよくあります。それは、太陽の通り道である黄道に垂線を降ろす形でチャートができているからです。惑星たちは黄道の北にあったり、南にあったりで、そういうことで、こういったことが起きるのです。カシオペイアなどを見ているとよく分かると思います。北半球では年中見えています。だからといって、これらを昼の星々だとも言いません。昔から言いません。

 

こうやって歴史を通してどのように西洋占星術が行われてきたのかを集めていくと「西洋占星術とは、星々を観て適当なことを言うだけである」、という定義も成り立たないわけではなくなってしまいます。まぁ、事実そうやって揶揄されてきているわけですが。

 

 

ホロスコープを作って西洋占星術を行ってきた、という事実はあるにせよ、そのプロセスの中に埋もれてしまったか、顧みられなくなった技術は幾つも存在する、ということだけがここまでの歴史的な考察で分かってきたと思います。

 


次は、じゃあ、どのような形が、「西洋占星術」と呼ばれるものに極めて近いのか、必要物は何か、という考察に入っていけるはずです。