西洋占星術と、唯識論


● 占星術は唯識論に非常に近い概念を持っています。私の考える占星術は、星によって操られる私たちを読み解くのではなくて、星々の位置は、私達の心が繰り広げる心象が展開され、そして天に投射される映像だとするものです。心の映像ゆえに、読み取れるものとして判断するのです。この積極的な自己中心主義は、映し出される星の位置に捉われずに成長ができることにつながっていきます。

 

  星の位置によって人生が操られているのなら、星の位置は誕生時に決定的ですから、その配置は人生の最後までその人をコントロールするでしょう。まさに、星の動きにつられてそうなるはずです。しかし、私達の習う占星術ではそうではなく、人生のイニシアチブを取るのは常に自分自身だと考えていいものです。星の位置は、誕生時でさえ、自己の心の表れに過ぎないのです。

 

  西洋占星術とは、簡単に言えば、星の言葉である象徴を問題に沿って解釈する、翻訳をすることです。ギリシャ人によって遺された純粋で合理的な占星術の原型は、プトレマイオスの残したテトラビブロスに残されています。しかし、そこには西洋占星術の初期の形態の占いカターキー等、占星術の歴史的な痕跡は残されていません。したがって、その中に書かれているものは、ホラリー占星術と整合性は持ちません。プトレマイオスは、ホラリー占星術と名指ししないまでも、好ましくない占星術の形態も存在していると述べています。

 

  このテトラビブロスの記述のせいで、ホラリー占星術を真面目に取り扱っていない占星術師は歴史を通して幾人も登場しました。その論に沿ってホラリー占星術を取り上げると、ギリシャの占星術の持つ論理に沿わない問題が幾つか出てきます。その「何か特別なもの」を突き止めることが占いの源形態を蘇らせてくれるであろうと、20世紀の占星家、ジェフリー・コーネリアスが研究しています。彼の論文は、テトラビブロス以前の長い間の占いの歴史的展望を含んでいます。

  

● 天と地上との対応
  西洋占星術では、天と地上に対応関係が生じると考えます。しかしながら、この対応関係は、時間的にも空間的にもかなり幅を持っていて、生活上で経験するような性質とかなり隔たりがあります。同じ様なこともありますけれども、趣の違う領域に属するものもあります。惑星と惑星がある距離を保ちながら近づくことで、物事が成就するというような意味で捉えることがありますし、また、同じ状態を物事の性質を表しているとも捉えます。

 

  このような天の星々と地上の事柄の対応関係を捉えていく判断の経験を積んでいくと、やがて、見事に占星術的な対応が成り立つことに気付く時期がやってきます。すると、宇宙には何か別の生命体が実在していて、星々と我々を采配しているとしか思えない、そう捉えざるを得ない瞬間が来ます。その神々しい出会いを経験するならば、誰しも真理そのものを探究してみたくなるでしょう。

 

  占星術を学ぼうとする方々の全てが、始めから真理を把握したいが為に占星術を志したのではないのは至極当然のことです。学び始める動機が如何なるものであっても、神秘的な対応関係で星々の位置が形作られていることを何度も経験すると、ひょっとしたらそこには真理が横たわっているのではないかと思い始めます。そういう瞬間が必ず来ます。そこで気が付くのは唯識論的な世界観ですが、それにもまして、自然と、大宇宙に対する敬虔な思いが湧くものです。

 

  星々が私たちを操っているのではありません。ひょっとしたら私たちの心が、神や大宇宙の生命エネルギーに感応し、そして惑星の位置を決定しているのだと思えるようになるのです。天に置かれた惑星の位置には、対応している心があるのです。確かに、簡単に読めるチャートと、難しいチャートというものがあります。どうして、そのような差ができるかは分かりません。

 

  しかし、対応関係が天と地に生じていることを経験すると、何がそうさせるのかを考えるようになります。この疑問に至った時に、あなたは真実とか、真理と言われるものについて、占星術を通して考え始めることになります。それはそう遠くない未来にきっと始まるでしょう。天と地の対応関係を味わったならば、あなたは真理の片鱗に今一歩近づきたい、もう少し強く触れてみたいという欲求を持ち、それを求める気持ちは、占断による確信と共に徐々に大きく膨らんでいくことでしょう。

 

  この世は、因果関係的な説明だけで全てを理解できるように形作られているわけではありません。愛、情熱、美しさ等、数学的には把握できない事柄もたくさんあります。これらは体験せずには理解できません。元々宇宙には、因果関係も対応関係も超えた偉大な法則が存在しているのだと思います。ある人は単純にそれを真理と呼ぶかもしれませんし、他の人はそれを、神の存在を示唆するものだと捉えるかもしれません。

 

 


● 西洋占星術における、見える光の重要性

  海王星や天王星は、占星術上あまり重要な役割を持っていません。本に書かれることによって、それらの外惑星はさも重要な役割を持っているのだろうと思われるようになりました。これから説明していきますが、西洋占星術ではエレメントを持っていない惑星はあまり重要ではないのです。数十年単位で動いている恒星でさえ、充分な光を放っているのにコンジャンクションという特殊な位置に来た場合にのみ考慮することになっています。だとすれば、見えない惑星、充分な目に見えるほどの光を放っていないエレメントを持たない惑星を、私たちはどう捉えればいいのでしょう?

 

  そう考えてみると、光についての考察は西洋占星術を探る者として、避けて通れない命題になります。

  

● 西洋占星術では、なぜ、可視光を大事にしてきたのでしょう?

  マルシリオ・フィチーノによれば、それは、目に見える光を、二次的なものと認めていたからです。光を二次的なものとすれば、光によって見える物体は三次的なものと考えることができます。最初の光とは、一次的な光とは何を指すのでしょうか?

 

  マルシリオ・フィチーノは、一次的な光を神の叡智の光と捉えました。それは神のものであり、神的な光であり、それは一種の真理としての純粋さを持ったものとしたのです。その叡智を我々は可視光によって感じようとします。二次的な可視光を通して、一次的なものに迫る態度が必要なわけです。波を見て風を感じるように、可視光を見て神の光を感じようとするわけです。光を放たない天体は、この論に沿って捉えるとどうなるのでしょう?

 

  この考え方だけが正しいというわけではありませんから、別の考え方を持ってこざるを得ないでしょう。「宇宙にある全てのものに意味がある」という答えも想定されます。宇宙にある全てのものには、確かに意味はあるでしょう。そのことと、「宇宙にある全てのものに占星術的な意味がある」、ということは違っています。その場合、占星術的に考察されてこなかった重要な対象物は、何故考察されていないのかを明確に述べる必要があります。例えば、ガリレオに望遠鏡で始めて発見された木星の衛星等についてもです。

 

  真理を放つ一次的な光を可視光以外に求める時に、西洋占星術は様々な展開をしたり、また、拒絶したりすることになります。一次的な光を神の叡知とすれば、可視光を放つ惑星の位置は二次的なものです。私たちは、天体を二次的な光を通して認識していきます。

  

● 外惑星と、西洋占星術の天球

  光に付いての考慮をとりあえず先に伸ばし、私達は、先の図に天王星や海王星を入れ込む余地があるのでしょうか? すると、答えは『ある』ことになります。どこかというと、場所としては恒星の天球に入ります。恒星に付いて初期の占星術は、あるいは17世紀まではどのように捉えていたかというと、先ほども述べたように、コンジャンクションのみを考慮してきました。

 

  考えてもみて下さい。100個程度の恒星が考慮の対象となります。これらの全てを、惑星の置かれているサイン位置でどのようなアスペクト関係にあるかを考えていくとすると、それは大変繁雑な作業となるはずです。恒星たちは光を放っているのにです。もちろん、先達たちはそんなことをしていません。恒星はコンジャンクションのみを考慮してきました。恒星どうしの置かれているサイン同士を考慮することもありませんでした。光り輝いている、目に見える光を持っているモノに対してさえ、それほど厳しい限界を設けていたのです。

 

  光を放っていない外惑星に対する考慮は、その程度が適当なのではないでしょうか。この考え方以外では、基礎となっている西洋占星術の天球に彼らを入り込ませられなくなってしまいます。

 

  もしも、天王星や海王星の天球も増やすというのであれば、アスペクトの考慮もできるようにはなるはずです。しかし、今度はエレメントをどうするの? ということになってしまいます。また、太陽が中間者にならなくなります。太陽は王です。王が王の位置を取れなくなる天球図では、コンバストを想定することができません。基礎は基礎です。この基礎は西洋占星術の基礎として、何人たりとも動かすことができないはずです。また、動かすとすれば、動かすための哲学が必要となるはずです。遠い昔の人達が、精魂を注いで西洋占星術の基礎を作り上げた時のように。