創造主の位置と、その他の神々の位置

 ★ 西洋占星術の天球構造


 ● 神々の位置(神話)

 

 世界各地の神話や、仏典、聖書等から覗えることは、創造主あるいは名もない神と、恒星の天球(つなぎ合わせると星座)に留まる神々の、大別して二階位の神が想定されることがあげられます。大雑把に言って、結婚をする神々と、結婚をしない神々です。

 

日本の神話でも、古事記に出てくる一人神は七柱あり、「アメノミナカヌシノミコト」や、「タカミムスヒの命」や、「カミムスヒの命」は一人神です。一人神とは、結婚をしない、求めない神です。一方、イザナギの命やイザナミの命は、男女別々の性を持つ神々です。聖書に登場する「創造主」も、結婚を標榜しない神です。仏典でも、神々の上の段階になると、雌雄が分かれていません。つまり、幾つかの神話や宗教でも、精神的なレベルが上れば上がるほど、もはや性別に支配されない世界があるようです。どうやって子孫が生まれるのかというと、仏典によれば、その当該の世界に相応しい魂たちは、蓮の花から新たに転生してくることになっています。

 


 神話に戻ると、恒星をつなげた星座と、その星座の間を遊ぶ神々は、時には人間に恋をしたり、互いに嫉妬をしたりもする、男女別性の神々です。神々といえども、星座に写し出された神々の心の状態は、創造主とかなり隔たった要素を持っていると捉えられます。なぜなら、神話に登場する星座を形作っている神々は、私たちの知っている心の働きとよく似た動きもするからです。創造主は求めることを離れていますから、不動という概念が相応しくなります。よって、神々にも二階位の概念が想定されることになります。上位の神は一人神、激しく心を変えずに法則そのものを司り、星座を操る創造主です。下位の神々は、恋をし、闘争もなし、嫉妬もし、子供も雌雄の何らかの結合で作る、心変わりを幾分してしまう男女別性の神々です。ですから、星座の神々と創造主は同じ場所を占めるに相応しくはないでしょう。

 


 ● 星座の天球

 

 星座の天球は、恒星の張り付いている場所として目に見える天球であり、そこに我々の祖先は神話に登場する多くの神々を想定してきました。占星術では恒星とそれをつなげた星座(浮気もするし喧嘩もする神々)の天球が、少しずつ前に進んでいると考えています。この動きはとても遅く、約3万年ほどかかることになっています。このように観察されますから、恒星とは言うものの、星座の天球がゆっくりとですが動いていることになります。創造主の天球は、固定的(30度ずつで変化しない)で黄道帯12サインと呼ばれ、我々には見えない不可視の天球です。

 

 ◆ 星座と神話と聖書

 

 西洋占星術が、その天球を考察する場合に、その宗教的とも取れる概念をどう入れ込んできたかを考えてみましょう。

 

黄道帯12サインの順番は大いに星座の名前に依存しています。それでも、サインの意味は、星座の意味とは違っていますから、サインの意味 ≠ 星座の意味です。星座には、ギリシャやローマの神話にあるように、とても華々しい物語が一つ一つ付与されていて、それを読んでみると星座の意味は把握できます。けれども、それらはサインの意味とは違っているのです。混同している方々が、とても多くいらっしゃいます。

 

ギリシャ・ローマ神話によれば、始めに名もない神がいて、その神と自然が手を下してこの世を形作っていったことになっています。その後に登場する神々が多くの星座を作っていきました。まさに、多神教の世界観を持っているのです。神話の中で、アポロンの息子であるパエトンが父親の宮殿にたどり着くと、アポロンの神殿の銀の扉の両側に6つずつ、12の星座が刻まれていたとなっています。ここから考えると、神話の12星座から12サインのヒントが湧いたのかもと思ってしまいそうですが、この逸話の部分が、神話の作られた始めのころから挿入されていたかどうかは定かではありません。

 

 西洋占星術の偉大な教科書の一つは聖書であると言われます。
「聖書」のヨブ記にこうあります。(38: 31-33).

 

お前はスバルの鎖を引き締め
オリオンの綱を緩めることができるか
時がくれば銀河を繰り出し
大熊と子熊を共に連れ歩くことができるか
天の法則を知って
その支配を地上に及ぼす者はお前か!

 

 この聖書の文節は、創造主が声高らかに、「星座を作ったのは私で、その法則を知りつくしているのも私で、星座を含めて地上にまでその支配を及ぼしているのも私だ!」と獅子吼している個所です。

 

このように考えてくると、創造主が自分の作り上げた時々浮気もする神々の内側を歩んでいるとは、決して考えられません。私が星座を作ったと述べる創造主の住む天球の内側を、男女別性の神々がゆっくりとではありながら移動するのが西洋占星術的な視点になります。創造主は、春分点を含む十二サインの天球にいて、そこは占星術的に不易であり、その内側を恒星とそれをつなげた星座の天球がごくごくわずかずつながら前進しているのです。

 

今日、一部のテキスト類では天文学に準じて、サインが恒星と星座の天球に対して後ずさりしていると書かれているものがあります。でも、サインは創造主の天球であり、恒星と星座の天球が前に進んでいるのです。占星術は天文学に媚を売ることを全く必要としません。独自の立場で捉えた方がより占星術をとらえやすくなります。

 


春分点

 西洋占星学では、春分点を含む黄道帯に置かれているサインを動かない帯状のものと捉えています。これに対して、星座は少しずつ前進していて、長の年月のうちにかなり前に進んできました。その前進する速度は72年間に約1度です。その結果、2011年現在、牡羊のサインは下図のようにほとんどうお座と重なっています。

図-2
図-2

オリオン座とかアンドロメダ座いうのは、ギリシャ神話やローマ神話の中にも登場するもので、西洋占星学成立以前からありました。図-2は、西暦2000年の春分点を含む近隣の星々の位置です。御覧のようにうお座の中に春分点があり、牡羊のサインと称される場所にはおひつじ座がありません。牡羊のサインほぼ全体が、うお座にあることが分かります。やがて、ここ数百年の間にみずがめ座が前に進んできて、アクェリアスの時代と呼ばれる時代が始まります。うお座の時代とか、アクェリアスの時代とか呼ぶのは、春分点のある星座の時期・時代を指して言います。

 

図-2は、架空の天球であるサインの方が後ろにあると思ってご覧ください。黄道に対して直角の線が引かれているのは、西洋占星術では、様々な星々を黄道なり赤道へ垂線を下ろして考えるからです。

地球からの惑星達の観測位置は、西洋占星術 が産まれた当初よりもより高度な数学によって計算されるようになりました。この物指しとしての天体の位置は、船の航海や占星術でもよく実際的に使われ役立っています。遭難者にとっても役立つかもしれません。

 

占星術の持つ思想に関しては、上記の天球構造の中に神々を想定するものとして少し表れ出ています。西洋占星術が初期の発展を遂げたギリシャには、宇宙論を根底として、天上の星々と月下 の物事は関連しているという考え方が出てきました。ギリシャの宇宙論は、12サインや惑星のことと、地上の自然界や人間界の対応を理論的に証明しようとするものでした。いや、神々の存在を、理論的に証明しようとしたのです。


占星術による物事の判断

 そこからやがて、星々を通して個々の運命を判断する技法が編み出されていくことになります。やがて時代を経て、一部では知られていた地動説によって、16世紀以降にコペルニクスやガリレオが天動説を覆すことになります。アラビアではそれよりも早く、太陽が中心であることを再考しています。それでも占星術師たちは頑なに地球中心のトレマイックな天球に固執します。そう、西洋占星術の宇宙構造はいまだに昔のまま、地球中心の構造で良いのです。それは何故でしょうか。

 

何故、地球中心で良いのか
宗教性を帯びている占星術の天球構造 
占星術は、天文学が過去と決別し太陽を中心とした後も、地球中心の天球に拘り続けています。占いは、このことで矛盾を生じさせることはありませんし、この天球こそがより真実を求め得るものなのです。西洋占星学の宇宙観は、引力や時間の歪みを観察するものではありません。人生を観察するモノなのです。地球中心の天球と、太陽中心のそれは、真実と現実の差と例えられます。

真実や真理というものは、ある意味永遠性を持つものと捉えられ、現実は実在であり変化してやまず真実とは違います。太陽系の命も永遠性を持っているわけではありません。つまり、太陽中心の天球は現実の世界を映し出していて、真実を表しているわけでは無いのです。

 

西洋占星術は真実を掌握するものであり、地球中心の天球は真実を探すためのものです。コペルニクス的な天球は現実を表していて、錯覚の世界である現実世界そのままに、真実を見つけることは稀なのです。



西洋占星術は、真実を見つけ出そうとしている

「星を読むことができるとしたら、それを書いたのは誰?」 
占星術の命題の一つに
「もし占星術が言語であって、私達が星を読み解くことができるのならば、誰が、あるいは何が、それを書いているのでしょう?」 
というものがあります。

 

それに対する答えは幾つか想定されます。それら、仮定されるどのような答えであっても、星々の位置が何か意味の有ることを語っていると考えること自体、この宇宙の物理的な法則以外の何らかの法則性を認めることになります。古くは、神の存在そのものを素直に信じていた時代もありました。マルシリオ・フィチーノ 風に言うならば、波を見ながら風を把握するように、光を観察しながら神の叡知を感得していたのです。

古代の人々は、物と物とを結びつける力、人と人とを結び付ける力を、引力等の物理的な力以外の神秘的な力に求めました。

 

占星術というのは、星の位置を書き込む誰か、あるいは何かの存在を認めなければ成り立たない芸術です。「天にあるがごとく、地上にも」と言われ、また、「星座や星々は、創造神の使う道具である」と語り伝えられてきた背後に無くてはならない考え方です。

星を読むという行為
「星を読むことができるとしたら、それを書いたのは誰?」
という命題にYesの答えを与えるとすれば、それは、私たちに、私たち以外の生命体を予想させ、占星術に与えられたこの命題を突き詰めていくと、西洋占星術が明らかに宗教性を備えていることが理解されてきます。しかしながら、西洋占星術が特定の信仰心を人々に押し付けることもありませんし、すでに持っている信仰を放棄させることもありません。このことは同時に、普遍的な宗教観か、あるいは倫理観を備えていることを彷彿とさせます。信仰心を持たない人々にとっては、西洋占星術を学ぶことそれ自体が、大宇宙生命体とは存在するのか、あるいは、神は存在するのかという大きな命題に取り組むことにもなるはずです。

 

西洋占星術が上記の命題の答えを持っているのかどうかを考察する前に、しばらく信仰というものに目を向けてみましょう。信仰、あるいは宗教、又、魔術等の言葉の定義を、仮にでもしておかないと、この議論はあらぬ方向に行くかもしれません。

占星術と信仰、あるいは宗教性
星を読み解くことを行為とするなら、占星術を通じて私たちは、知らず知らずに神とコンタクトを取ることになるのでしょうか? あるいは、神以外の何か特別の存在(例えば悪魔のようなもの)と対話をしようと試みているのでしょうか。星の言葉を読み解くという行為と、神々あるいは悪霊とコンタクトを取るという行為とは、他者を想定するというどこか共通性があります。それらとコンタクトを取るという行為が、直ぐさま宗教に直結することにはないにしろ、もしもそうであれば、占星術はかなり宗教性、あるいは魔術性を帯びてきます。

 

多くの宗教にはシャーマンに代表されるように、神々とコンタクトを取るという行為が内在します。まったくそれらを行わないように見える禅宗のような形態も存在しますが、それは稀なものでしょう。つまり、少なくとも、神と、あるいは悪霊とコンタクトを取るという行為が宗教には含まれます。

 

宗教には、もう一つ祈るという行為が必ず備わっています。祈るという行為は、手を合わせるという自然な形式から徐々に儀式的なものに組み上がっていきます。もっとも、信仰が宗教になる段階で、自分達の求める価値観に従うようになっていくものですから、信仰心と宗教には少し隔たりがあることに間違いは無いでしょう。

「私は祈っていないから、信仰を求めているわけではない!」
本当にそうでしょうか? 
それは、まったく自分の求める価値観に任されるものなのですが、チャートが語っている何かを読み解き知りたいと思う読み手を、語り手と分かつ時に、見えない何かを想定することを信心、あるいは祈りと言うのではないのでしょうか?

 

モダンな占星術の基礎を集大成したアラン・レオの傾倒した、神智学協会の創設者の一人であるヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー夫人の提唱したものは、信仰心を基にして万人が尊敬しあえる世の中です。彼女の残した「神は法則である」という概念は、とても幅広い宗教性を認める言葉です。神智学協会によれば、よしんば信仰心を持っていないにしろ、何ら咎められるべきものではありません。

 

宗教性の定義は捉えどころがないことは明らかですが、ここまで考えてきたことをベースに、更に先に掲げた占星術に対する命題に関する考察を前に進めるためには、ここで語る宗教性という言葉の定義をまとめておく必要があります。宗教性という言葉の正確な定義はとても難しいことだと思います。悪霊とコンタクトを取らない事までも含めると、とても膨大な定義が要りそうですが、あくまでも、これまでに述べた観点から観察しての一応の宗教性の定義です。

[1] 神(あるいは神々)と何らかのコンタクトを取る(取ったことがある教祖等がいた)。
[2] 祈るという行為、あるいはそれに準じた行為が備わっている 。

 

「星の言葉を言語として読み解く行為をする」ということは、語っている他者を想定していますから、明らかに[1]の宗教性に類似した行為の一つです。 
他者を想定するとか、形を整わすことがなくても、心の中で歓びを感ずるとか、教えてくれた対象に感謝するとか、ありがとうと言う気持ちを持つだけでも[2]の形態の一つに入ります。

 

このような観点から、西洋占星術が宗教性を備えていることは明らかなのです。しかし、宗教性を備えていたとしても、それは即、宗教ではありません。宗教となるには、更に、組織性、教える人(教主)、教義等の宗教が持つであろう必要事項の考察もしていかなくてはいけません。実占の場で鑑定を行っている人々は、占星術が持つ宗教性なぞ考えたこともないのが本当の所でしょう。でも、悪霊や悪魔が答えを教えてくれているとなると大問題になります。悪霊や悪魔が教えているのかも… という考察をここでは行いません。更に、ややこしくなります。

 

占星術そのものは、宗教ではないと思います。それでも、かなり信仰心を呼び覚ます行為であることは間違いありません。それを、私は、決して悪いことではないと考えています。占星術のように、一つの学習が必然的に「ありがとう」という感謝の気持ちを抱かせる学びは、それほどに多くないと思いますし、神々から絶えず示唆を受けているという気持ちを抱かせるものも、これまた少ないと思います。

占星術は、神の言葉を読み解くという行為と、祈るという行為が揃ってしまうために、極めて宗教性の高い行為です。この二つ(祈ることと神の言葉を仲立ちすること)は、占星術の中で、とても手を握り易い距離にある事柄だと見つけることができました。そして、占星術も宗教も同じような大きな命題、「私の人生の意味は何ですか?」 に直面していることを考えると、やはり両者は類似のスタンスに立っているものだと言えます。

 

学んでいく途上で一見、宗教と見まがうかもしれないものを含んでいるのは、地球中心の占星術の天球に始めから神々の位置が想定されていて、占星術がもともと真理を把握することを目指した学問として成立してきたことを物語っています。また、占星術の法則は論理的に出来上がっていますが、それは、現代の科学とは明らかに様相を異にしています。では、その法則の違いとは、どのようなものなのでしょうか。