■ 昔の占星家の偽らざるスタンス
13世紀のイタリアの占星家ボナタスは、占星術師に質問をするカレント(クライアント)にも神に祈れと忠告します。
これは、占星術師はカレントよりも深く祈っていて当たり前だと言外に述べているようなものです。17世紀のイギリスの占星家ウィリアム・リリーも、学生たちへの言葉に、まず始めに神に祈れと忠告します。神に祈らなければ判断を間違えるからともアドバイスします。ホラリー占星術においては、明らかに祈るという行為を勧めるので宗教と言えなくもありません。実際、生活を正せば正す程、読み解きやすいチャートが目の前に現れるものです。でも、占星術で星の言葉を読み取ることを行っている人々は、占星術は宗教的な行為とは言えず、宗教と私に何も関係は無いと考えていることがほとんどでしょう。
■ 「星を読むことができるとしたら、それを書いたのは誰?」
これへの答えの一つは、この宇宙には超自然的なエネルギーが活動していて、その高次のエネルギーが全てを統率しているからというものがあります。
それは昔の人が神とか仏とか呼んだものに近く、宗教を嫌って、偉大なる存在とか、聖なるエネルギーと呼み変えているだけなのだと思います。偉大なる存在を認める時点で、それは宗教性を帯びてしまっています。ただそれは、自分達の求める価値観に従うものであり、宗教を毛嫌いするスタンスや、何事も宗教性を帯びていくことを切り離したい価値観の為せるわざです。
■ 星の位置が何か意味を語っていると考えることは・・・
この宇宙の何らかの法則性を認めていることになります。
東洋の哲学に唯識論というものがあります。多くの西洋の占星家も、自らの星を読み解く行為を東洋の哲学に求めます。
唯識論とは、心がこの世界を表出していると考える思想です。表層意識、潜在意識、超潜在意識の全ての範ちゅうから、この世は思い通りにできていると考えるものです。もちろん、一番強く作用しているのは、超潜在意識のほうであり、表層意識、潜在意識と順番に整えていかないと、現実はなかなか変えることができないと考えています。心のシステムを把握すれば、超潜在意識が変わってしまえば、どれだけでも現実を変えていくことが可能だと考える思想です。
その為の日々の試練だとも捉えるわけです。どんなことがあってもへこたれなければ、心は明るくいられます。心が明るく軽くいられれば、明日も好転していくことでしょう。その唯識論によれば、星の位置さえ心が決定するわけです。というか、良い時間に、星を選ばせてしまうような心の状態になっているということでしょう。心が選んだ星の位置ですから、星は読むことができます。
心と星の位置の表出を別々なこととすると、当然何も見えてきません。
そうなっているシステムを作り上げたのは誰?
ということになるはずです。
もっと偉大な魂ではないのか?
もっと偉大なエネルギー体ではないのか?
と、自ずから導かれるわけです。
■ どうやって考えても、偉大な存在に戻ってきてしまいます
占星術が宗教そのものであるというつもりは、まったくありません。西洋占星術には、宗教的な概念が様々な形で入り込んでいると捉えざるをえないのです。
「Kuni. Kawachiは西洋占星術を宗教にしようとしている!」 そういう目で捉えると、そう捉えられてしまうくらい危うい領域に入り込んで話をしているのは充分わきまえているつもりです。
それでも、「もし占星術が言語であって私達が読むことができるのならば、誰が、あるいは何が、星を使って書いているのでしょうか?」
このフレーズはとても好きです。
■ 宗教性をおびている占星術の天球
西洋占星術では、天文学とは違って、創造神がその天球の一番上の部分から、神話の神々、星座、惑星達、そして地上をコントロールしていると考えています。
この宇宙観のスケールはとても大きく、外へ出て夜空を眺めて感じるしかないようです。それはどういうものかというと、まず地球が中心でその地上に死をむかえるべき我々も含めて、多くの動植物が住んでいます。
一つ上の天球は月の天球と呼ばれます。
その上が水星の天球、
金星の天球、
太陽の天球、
火星の天球、
木星の天球、
土星の天球へと続いていきます。
その上は、恒星の天球になります。ここまでが目で見える天球です。ここに神話の神々が住んでいます。
その上に、架空の天空であるサインの天球を想定します。これが創造神の位置です。
この他に神の天球という特別なものはありません。これらの天球を想定することは、学校で習った天文学的な宇宙とまったく違いますね。
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2008年 2月23日
2010年11月11日改訂
ネイタル・リーディングの本 | 推薦図書 『星の階梯シリーズ』