「人の一生は、運命という、どうすることも出来ない力で、きまった道筋を引きずられて行くものである、というように信じているものがある。そして生まれた年月日、又時間がわかればその人の一生はすっかりわかるなどと言う者さえある。「運は天にあり」とか「果報は寝てまて」とか言うのは、そうした考え方からであろう。」 丸山敏雄著 「万人幸福の栞」p34
私も、そう思います。
もし、ネイタル占星術を信じているなら寝ていたらいいのです。そのような一生になるでしょう。寝ていて成る人生はありません。どうしてもそうなると、ネイタルには書かれている。本当でしょうか?
しかし、体を動かさずに星の通りになるとは言えません。ネイタル占星術というのは、気が付いたときから変わり始めるものなのです。ホラリー占星術でも、行動しないと結果は付いてきません。「彼と会えますよ」と言われて、デートの日に出かけなかったら、会えないのです。試してみた人もいます。
できることを出来ないように行動するのは簡単です。逆に、できないことを行動によって出来るようにするのは、何倍も難しいことです。大変な努力の結果、結実することもあると、昔の占星家も言っています。でも、往々にして、塞翁が駒のごとくに、その次は、その為に良くないことも起こり得るものと思います。その両方を合わせ飲む気概は持たないといけません。
物事の結果がこうだから、この方が良いとは決して言えません。成功と幸せは違うのと似ています。
ホラリー占星術は、戦争などの現場で使われたものと思います。負けると分かっていれば逃げるが勝ちです。そういうこともあったでしょう。諸葛亮孔明が100戦して99勝した背景には、占星術が介在していたという噂もあります。
結果が分かれば… という大事な場面があります。そういう時こそ、占いの出番です。
結果が分かれば、その方が安心というのは、
どのような場面が想定されるのでしょうか?
幾つかあげてみます。
私は上記の「解けない疑問」を持ったまま、ネイタルは学びたくありません。人生は変えていけるという方が好きですし、人生が変えていけるなら、ほとんどの誕生占いは要らないとも思います。
重要な場面では、占った方が安心感を得られます。
私自身の体験では、「この病で、私は死にますか?」ということを占ったことがあります。大変な胃痛持ちで、何かあると気に病み胃が痛んだのです。とても痛くて寝込んでしまったことがあり、ホラリー占星術のチャートを立てたのです。
チャートを見て一瞬死ぬと思いました。でも、生きたかったので、チャートをつぶさに見てみました。アセンダントのロードと死のハウスのロードが、アスペクトしそうで、アスペクトしていませんでした。その安心感が、病そのものを取り去りました。
それ以来、実際に胃が痛むということも無くなってしまったのです。また、再発するかもしれませんが、その時はその時、明るく明朗に生きているので、よほどの苦難に合わない限り再発はしないと思います。明るさを無くすと、病が忍び込みます。胃が痛かった時は、環境にも腐り、病になっていいることにも腐り、暗い心境でした。
何かが切り替わる瞬間というのがあるのですね。視点が変わる。この時は、チャートを見て安心感を得て、その安心感から幸せの状態に一気に駆け上ったような感じがします。滅多に自分自身のことを占わないのですが、その時は、どういう心境か、死んでもいいや、とにかくチャートが見てみたいと思わされたのです。
話は飛びますが、西洋占星術にも視点が変わる瞬間があります。今まで考えていた視点と、全く別の視点に気付くことがあります。サインの回転方向とハウスの回転方向が違う、というのも視点の違いですし、惑星をチャートの中にある記述されている惑星から観察する視点と、エッセンシャル・ディグニティーの表にある惑星側から観察する視点に気付くときも、新たな段階に入る違いです。
だからといって、ネイタル占星術を勉強していないわけではありません。こちらの側からも、占うヒントが得られるかもしれないと考え取り組んでいます。
ネイタル・リーディングの本 | 推薦図書 『星の階梯シリーズ』